「テプラ」開発した4代目社長の栄光と挫折


10/6(金) 7:47配信

NIKKEI STYLE

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 テプラやポメラ、ショットノートなど、独創的な商品を生み出してきた事務用品メーカーのキングジム。厚型ファイルに次ぐ収益の柱に育ったデジタル文具の開発をリードしたのは4代目社長の宮本彰氏だ。テプラの成功で社長に就任したが、その後、そのテプラの特許係争で痛手をこうむった。紙やファイルを過去のものとする、文具のデジタル転換期を、キングジムはどうやって乗り越えてきたのか。
■会社草創期、発明家社長がエンジンに

 「子どものころはまさしくここに住んでいました」と本社の床を指し、彰氏は言った。1954年東京都千代田区東神田の生まれ。当時としては珍しい5階建てビルが会社兼自宅だった。
 「年末になるとビルの前にワゴンを出して、少々難ありの商品を販売していました。小学生のころはよく、それを手伝っていたんです。率は忘れましたけれど、売った分のいくらかをお小遣いとしてもらえた。そう、完全なる歩合制でした」
 彰氏が小学校へあがったのは、ちょうど「名鑑堂」から「キングジム」へと社名変更した時期だ。創業者で祖父の英太郎氏も、同じ屋根の下で暮らしていた。彰氏はこの祖父の教えを受けながら、家業を継ぐべく育てられた。孫の目から見た英太郎氏はどのような人物だったのかと質問すると、彰氏は笑ってこう答えた。
 「自称、偉大な発明家。頑固で変わり者でした」
 事業を始める前、英太郎氏は材木商に勤務するサラリーマンだったという。のれん分けの資金500円を元手に独立。事務作業をしていたある日、はがきの住所部分を切り抜いて差し込めるようにしたらどうだろうかと思いついた。そうすれば顧客名簿に住所をいちいち書き写す手間も省けるうえ、順番を自由に差し替えられる。これがたちまち評判となり、後の画期的なアドレス帳「人名簿」へと発展した。その発売をきっかけに材木商から文具メーカーへと業態転換し、キングジムの前身「名鑑堂」を立ち上げた。

 「とにかく世にないものを作るのが大好きな人でした。もちろん、失敗も多いんです。失敗した発明品のなかには、『世界共通言語』なんていうものもありました。発音記号のような文字を考案して、『世界中がこれを使えばコミュニケーションが円滑になって世の中が平和になる』なんてことを言っていましたね」

 戦後になって経済が安定してくると、米国人が日本の文具を買い付けにくることもあったという。しかし、英太郎氏は英語が話せないため、商談は成立せず、悔しい思いをした。そんな苦い経験が世界共通言語の発明につながったそうだ。

 ■3代目社長は元銀行マン

 英太郎氏は発明のために世界中を旅して歩いていたそうだ。「どこでどうやって調べたのかわからないのですが、どこそこの国にいい文具を作っている会社があるらしいという噂を聞きつけると、勝手に行っちゃう人でした。言葉もできないのに、通訳なしで。無事に帰ってこられるのかと、みんな本気で心配したみたいです」
 そんな向こう見ずな性格だから、「金勘定は苦手だった」。そこで銀行から金庫番として引き抜かれたのが彰氏の父親、浩三氏だった。英太郎氏の娘と結婚するのと同時に入社したという。
 「祖父からすると、父は娘婿にあたります。祖父には長男もおりまして、この人は人付き合いのいい営業向きの人でした。その人が2代目社長になり、父はその2代目を支えるために入社したのです」
 ところが2代目が若くして急逝してしまったため、浩三氏が3代目社長に就任することになった。慶応大学法学部を卒業した彰氏が、そんな父親の経営するキングジムに入社したのは77年のことだった。
■危機感を共有する若手社員とEプロジェクトを発足
 「変わり者の祖父を尊敬していましたから、自分もそうなれたらいいなとは思っていました。他社で修業をしてから入社するケースも多いですが、私はそれを拒否したんです。修業というとかっこいいけれど、しょせんは腰掛け。やるからには骨を埋めたいし、会社にいる先輩たちとの差も早く縮めたかった。ならば1日も早く会社に入って勉強したほうがいいと思いました」
 最初に配属された工場では、力仕事の資材運びを担当した。フォークリフトの免許も取った。本社に戻ってからは、営業、貿易、経理、経営企画を駆け足で経験した。
 まもなくペーパーレスの時代がやってくる――。そんな予測が、盛んに新聞や雑誌をにぎわすようになっていた。「紙がなくなればファイルも売れなくなってしまう」。彰氏は85年、同じ危機感を共有する若手社員と「Eプロジェクト」を発足。新たな収益の柱を作るため、電子文具の開発に乗り出した。
 「若手の何人かで酒を飲んでいるうちに、『やりましょう』という話になったんです。実は言い出しっぺはほかにいた。これも東大を中退した変わり者でした。しかし、普通に提案しても稟議(りんぎ)は通らない。だから私が担がれたんです。万が一失敗しても、私ならクビにはなりませんから」
 ひょうひょうと語る彰氏だが、危機感は相当に強かったようだ。自宅にマイコン(現在のパソコン)を購入し、プログラミングをおぼえ、簡単なゲームを作成するほど研究に没頭していたという。

 ■テプラでの成功と挫折

 ラベルライター「テプラ」のアイデアはすでにあった。最大のネックは開発費だ。おそるおそる社長に切り出すと、「最悪、いくら損をするのか」と聞かれた。当時、キングジムの経常利益は10億円ぐらいだったという。「5億円です」。当然、ストップがかかると覚悟していたが、社長の答えは意外なものだった。
 「それぐらいなら会社は傾かない、やってみろと二つ返事でオーケーしてくれたんです。これには驚きました。テプラの価値がわかってそう言ってくれたのか、単に親バカだったのかはわかりませんけれど……」
 88年に発売したテプラは瞬くうちにヒットし、看板商品の一つになった。その成功をひっさげて、彰氏は4年後の92年、4代目社長に就任した。
 「当時、周囲からはテプラ社長と呼ばれていました。要するに、おまえはテプラを成功させて社長になったのだと。実際は社員が作り、私はハンコを押しただけ。まあ、それでもいいかなとは思っていました」
 このテプラのヒットには後日談がある。生産を委託していたメーカーから特許侵害で訴えられたのだ。最終的には和解が成立したものの、約30億円を相手側に支払うことになった。この一件で、キングジムは2002年6月期に創業以来初の赤字に陥った。
■失敗バネに東証1部上場、ヒット商品連発
 テプラの累計販売台数は約950万台。その同じ商品で味わった、人生最大の挫折。すべては経験不足に起因するものだったが、彰氏はこのとき、「責任をとって社長を辞めようかと思った」という。

 この失敗をバネに彰氏は会社を立て直し、05年には東証1部上場を果たす。08年には「ポメラ」を、11年には「ショットノート」を発売し、いずれもヒットさせている。

 あれほど盛んにいわれたペーパーレスの波は、すぐにはやって来なかった。プリンターなど新たな電子機器の登場で、紙の需要はむしろ一時的に増加した。実際にその波がやってきたのは、ごく最近のことだという。安い海外産との競争も激しくなり、看板商品である厚型ファイルの利益はピーク時だった90年代初頭の約半分にまで減った。その分をデジタル文具やM&A(合併・買収)による収益で補っている状況だ。

 もし80年半ば、損失覚悟でデジタル文具の開発に踏み切っていなかったら今頃どうなっていたか――。「ぞっとします」と彰氏は話す。

 
■釣りも「ポケモンGO」も大好き

 仕事ひと筋の経営者も多いなか、彰氏は趣味人でもある。若いころから毎週土曜日は釣りに出かけている。最近はヘラブナ釣りに凝っている。「なかなか釣れないのですが、本を読んで研究しています。たまに私よりうまいベテランに勝つと、『やったー』とうれしくなる」

 勉強のつもりで始めた「ポケモンGO」にも熱中するなど、とにかく好奇心旺盛だ。散歩をしながら景色の移り変わりを見るのが楽しみという話をしながら、「そう言えば、街路樹って何種類あるかご存じですか?」と逆に質問された。答えられずにいると、「実は100種類以上あるんです」。

 子どものころは決して勉強が好きなほうではなかったというが、今はその分、新しい知識を獲得することが楽しくてしかたがない。「若いときほど頭が柔軟じゃないから覚えるのも大変ですが、いくつになっても成長できるってうれしいじゃないですか」と話す。散歩の途中で見知らぬ植物を見つけると、すぐさまスマートフォンで調べる。立ち止まったら、ついでにポケモンもゲット。日本野鳥の会の会員でもあり、新しいポケモンを見つけて捕まえるのはバードウォッチングにも似ているのだという。

 最後にこんな質問を投げてみた。「もしもキングジムがだめになるとしたら、どんなときだと思いますか?」。一瞬考えて、こう答えた。

 「守りの体制になったら、だめでしょうね。守るのは得意じゃないから。基本は攻めの会社だと思っています」

 次回は開発者から見た、キングジム流のものづくりについて聞く。

(ライター 曲沼美恵)
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個人の意見

> 仕事ひと筋の経営者も多いなか、彰氏は趣味人でもある。若いころから毎週土曜日は釣りに出かけている。最近はヘラブナ釣りに凝っている。「なかなか釣れないのですが、本を読んで研究しています。たまに私よりうまいベテランに勝つと、『やったー』とうれしくなる」

 当方は某釣り場で何度も同氏の姿を見かけ、その釣り場の事務所で自社の「キングファイル君」フィギュアも発見しているのですが、ご挨拶する機会がありません。

 ちなみにメモ代わりに、旧式ですが当方は『ポメラ』を愛用しています(すでに愛用していた専門誌の編集者に勧められました)。