ドラゴン殺法・藤波辰爾選手が忘れられない「バトルロイヤルチャーハン」の味


4/26(金) 12:08配信

メシ通

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「炎の飛龍」藤波辰爾選手

「名勝負数え歌」「ドラゴン殺法」「飛龍革命」など、プロレス史に残る名場面をいくつも彩ってきたのはご存知のとおり。 アントニオ猪木に憧れて日本プロレス入団。その後、猪木が立ち上げた新日本プロレスへ。ニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンでのWWWF王座奪取や、ドラゴン・スープレックスやドラゴンロケットなど、華麗な技の数々でたちまち“ドラゴンブーム”を引き起こします。


ヘビー級に転向してからは師・アントニオ猪木長州力UWF勢などの強烈な敵を相手に好勝負を繰り広げ、2015年には日本人ではアントニオ猪木に続き2人目となるWWEホール・オブ・フェームとして殿堂入りも果たしました。現在も現役レスラーとして活躍中です。

戦後、力道山が創った日本プロレスを知る現役レスラーも少なくなりました。大分の実家でテレビに映るアントニオ猪木を見てレスラーを志したという藤波選手。当時のプロレスラーというと、力士や柔道などの経験者がスカウトでプロレス入りするのが通例で、一般の素人が受ける入団テストなどはまったくありません。藤浪選手が入団するには、「直訴」しかありませんでした。
ドラゴン殺法・藤波辰爾選手が忘れられない「バトルロイヤルチャーハン」の味

藤波辰爾選手
まわりは格闘技をやってたり、喧嘩が強かったり、そういうのばっかりだった

藤波:今は入門テストとか、いろいろとプロレス入団の方法があると思うけど、日本プロレスのころはスカウトがほとんどでね。「どこどこの学校に柔道の有段者がいる」とか「アマレスの強いのがいる」とか聞いて、そういう人に声をかけに行く。一見のファンが団体に入るなんて、まずなかったんですね。

──では、どうやって藤波選手は日本プロレス入りを果たしたんですか?

藤波:同じ大分県出身の北沢さん(北沢幹之魁勝司として活躍)が、怪我をしたのか別府温泉に療養に来ているらしいってのがファンの間で噂になったんですよ。だからもう、必死に探しに行きましたよ、温泉中を。それでようやく見つけて、日本プロレス入りを直訴して。そのまま巡業に連れて行ってくれてね。北沢さんにしたら、いい迷惑だったろうけど(笑)。

──それから上京して、新弟子生活がはじまったわけですね。

藤波:そうですね。でも最初は見た目がね……まわりは普通に格闘技をやっていたり、喧嘩がメチャクチャ強かったりとか、そういうのばっかりで。みんな体がでかいですから。そんな中に、本当にただのプロレスファンと同じような感じだったからね。丸坊主で、制服を着て(笑)。

──新弟子はまず食事当番からやる感じだったのでしょうか。

藤波:寮に入って、まずは炊事当番を先輩に教えられました。困ったのが、田舎では薪でご飯炊いてたんだけど、当然こっちには薪なんかない。ご飯の量も1升炊きみたいなのだしね。先輩の見よう見まねで覚えていきましたね。

──やっぱり基本は鍋ですか?

藤波:そうです。料理は力道山先生の相撲の流れから来てるんで。あとは先輩から教えられて、卵焼きや煮物を作ってね。当時はお相撲さんあがりも多かったから、料理はみんなお手のものなんですよ。鍋料理だと、まな板なんて使わないんですよね。手のひらの上に材料をのせて、包丁で切って、野菜なんてそのままちぎって入れちゃう。

──豪快ですね! 当時の藤波さんの得意料理は何だったんですか。

藤波:得意料理とは言えないですけどね。だいたい僕のちゃんこ番の時は、湯豆腐をよく作ってましたね。作るのが一番簡単だから(笑)。豆腐と鶏肉、豚肉、あとは野菜を茹でて。

──新弟子になって体重は増えました?

藤波:日本プロレスに入った当時の体重は60キロあるかないかだったけど、デビューの時はなんとか70キロぐらいまで増やしましたね。でも、最初は食べるのが苦痛だったね!
お腹いっぱいまで食べて、さらにそこからどれだけ食べられるか、だから。お相撲さんはそういう経験を踏んできてるけど、自分はそういう世界の経験がないので、とにかくプレッシャーがすごい。これはすごい世界に飛び込んでしまったな……と、めしで気づきましたね。

──プレッシャーとは、どんな感じだったのでしょう?

藤波:ぼくが中学を卒業するくらいで身長が177センチちょっとくらいだったんですけど、当時は馬場さん(ジャイアント馬場)が2メートル8センチ、坂口さん(坂口征二)が2メートルくらいでしょ?
みんなデカかったんですよ。そのなかにぼくがポツンといる感じでね。だから毎日、息を抜く時間がない。食事の時も、息が抜けないんですよ。めしが一番楽しみな時間なはずなのに、喉を通らない。本当はお腹が空いているはずなんだけど、食えないの。そんな時期がしばらく続いたね。

──精神的にもキツかったんですね。

藤波:北沢さんがそれを見てたんでしょう、寮から近くの食堂まで連れ出してくれて。タダのめしがあるのに、食堂やレストランまで、わざわざご飯を食べに連れて行ってくれましたね。

──めちゃくちゃ優しいですね、北沢さん!

藤波:だからぼくは北沢さんがいなかったら、レスラーになってなかったと思います。

──北沢さんに連れて行ってもらった 食べ物で、思い出のものありますか?

藤波:カレーライスとビーフカツ、あとトンテキだね。いい洋食屋があってね、おいしかったなあ。あと大分の頃からカレーライスなんかは食べてはいたけど、味が全然違ったよね! 入ってる具も違うし。田舎と東京は違うなって思いましたよね。

グラン浜田の作った「鯉こく(こいこく)」の話

格闘技経験がないこともあり、他の新人選手に比べて遅れを取りつつも、入門から約1年半でプロレスデビューを果たした藤波選手。しかし、日本プロレスの上層部との確執から追放されたアントニオ猪木を追う形で藤波選手も退団。そして新日本プロレスを旗揚げします。

──日本プロレスから飛び出した後、猪木さんを中心に新日本プロレスを旗揚げします。正直言って、最初の頃は経済的に大変だったんじゃないですか。

藤波:大変でしたよ! たった6人で旗揚げしましたからね。猪木さん、山本小鉄さん、木戸修、北澤さん、柴田さん(柴田勝久)、それと僕ですからね。あとはレフリーでユセフ・トルコ。
旗揚げした時は、みんなは家があったんで良かったですけど、僕は家がなかったんで、猪木さんの家に居候して。当時の家は、今は新日本の道場になってますけどね。猪木さんの庭を潰して、そこに道場を建てたんですよ。みんなで庭の石拾いから始めて作ったんです。

──そんな歴史があの道場にはあるんですね。

藤波:お金がないところからのスタートだったけど、若いし、先々の金がないとか、そういう心配することはなかったね。あの頃は先を見るしかなかった。

──そんな新日本プロレス黎明期の食の思い出というと、何かありますか?

藤波:最初の頃のご飯の思い出というと、お弁当だね。道場がないころは、山本小鉄さんの奥さんが僕の弁当も作ってくれたんです。奥さん、たしか栄養士だから料理も上手くてね。おいしかったですよ。それから道場が出来てからは、選手たちだけで鍋とかもやるようになりましたね。

──ゴージャスだった日本プロレス時代に比べて、新日本の鍋はグレードは下がりました?

藤波:そういうことはなかったですね。お金はなくても、ご飯はしっかり食べさせてくれましたよ。日本プロレスの時は確かに贅沢だった。でも、新日本プロレスに移ったからにはやらなきゃいけない! と思って燃えましたね。
当時猪木さんも28歳くらいで、イケイケの頃だから、気性も荒かったし(笑)。その後、全日本プロレスを旗揚げした馬場さんへのライバル心もあって「全日本プロレスには負けるな」って気分はありましたね。選手も少ないし、社員も二人ぐらいしかいなかったけど。

──憧れだった猪木さんのもと、将来への希望はあったんですね。

藤波:ただ、日本プロレスで「やっと毎月の給料がもらえるようになったかな?」って時に新日本プロレスに来たから、また給料がなくなったんですよ(笑)。

──やっと下っ端から抜け出せると思ったら(笑)。

藤波:なんとかご飯だけは食べられたんですけどね~。でも、危機感がないんだよね。飯さえ食えれば、あとは練習はできるし、巡業が始まれば先輩からお小遣いも貰えたし。つらいこともあったけど、「自分の好きなプロレスに向かってる」っていう気持ちは間違いなくありましたね。

──実際、新日本プロレスは成長していきましたしね。若手もどんどん入って。

藤波:アッ、ひとつ思い出した話があってね。グラン浜田がちゃんこ番だった時に、「鯉こく」を作ってくれたんですよ。普段、道場の料理で鯉なんてまず使わないから「おい、これはどこで買ったんだ」って話になったんです。

──確かにちょっと珍しいメニューですよね。

藤波:聞くと、彼は釣りが好きなんですけど、買い物の時間に野毛の釣り堀に行って、そこで釣ってきた鯉だって言うんですよ。そこがもう小さい釣り堀で、水質も悪くてドロドロの釣り堀なんですよ。「この鯉って、まさかあそこの鯉じゃないだろな」って言ったら、案の定で(笑)。

──そんな所で釣らなくても、支給されているちゃんこ代で魚なんて買えるのに!

藤波:それが、預かったちゃんこ銭でパチンコをやって、すってしまったみたいで。残ったお金で鯉を釣ってきたという(笑)。それはもう、小鉄さんにものすごく怒られてましたね。

猪木さんにテーブルマナーを教えてもらった

──日本プロレス時代から憧れだった、猪木さんの付き人にもなりました。

藤波:最初に北沢さんに巡業についていった時もね、その頃は北沢さんが猪木さんの付き人だったんですよ。だから「猪木さんの付き人の付き人」みたいになってね。猪木さんの鞄とかも持ってましたね。本当に緊張したなあ。

──猪木さんと食べたご飯で覚えているものってありますか?

藤波:巡業に行くと、わりと行動は一緒だったんですよね。試合が終わると、ほとんど後援者の方とご飯を食べに行ってね。だから、肉や魚はけっこういいもの食べられましたよ。あと、東京に戻ってからだと……やっぱり肉かな?
焼肉とかさ、寮でもやってましたからね。お相撲さん上がりが多いんで、みんな焼肉も味付けができるわけですよ。お肉を買ってきて切って、七輪と網で焼いて。猪木さんがバター焼きが好きでよく出たんだけど、おいしかったよね。

──猪木さんにおいしいお店に連れていってもらった思い出はありますか?

藤波:けっこう自分たちがマンションまで着替えを届けに行ったり、一緒にマッサージに行ったりする機会があったんですよ。そういう時に、ご飯を一緒に食べることがありましたね。その時は、しゃぶしゃぶに連れて行ってもらうことが多かったです。猪木さんのマンションのすぐ下にしゃぶしゃぶ屋さんがあってね、「こんなの見たことない」ってレベルの、すごい肉を食わせてもらいました。それ以外にも、当時としては珍しいものを食べる機会が多かったですね。

──珍しいもの、ですか。

藤波:イタリアンとか、当時はまだあまり知られてない料理を食べに連れて行ってもらいましたね。おかげでテーブルマナーは猪木さんに教えてもらいましたね。どう食べていいのかわからないですから、こわごわとしてました(笑)。

──フォークだナイフだと、まだ日本だと珍しい時代でしょうね。

藤波:猪木さんってやっぱりお洒落なんですよ。着るものもお洒落だったし、ご飯どころもちょっと新しいお店に行くのが好き。レスラーとして、最先端でしたよね。みんながいかにもレスラーだって格好をしてる時も、ひとりスマートに背広を着てね。今もそうですけど、いいセンスしてました。

──当時猪木さんの奥さんだった、倍賞美津子さんの手料理とか食べる機会はありました?

藤波:ありましたよ。猪木さんの家にうかがうと「ご飯食べたの?」って必ず聞かれるんですよ。「これから帰って食べます」て言うと「食べて行く?」って言っていただけるので。ご飯とみそ汁と煮物とお魚、それにサラダが多かったですね。おいしかったですね。緊張してゆっくり味わってる余裕はなかったけど(笑)。

師匠のカール・ゴッチから、日本の雑誌を没収された

藤波選手が一躍脚光を浴びたのが、20歳で海外遠征に旅立った後、ドイツ・アメリカ・メキシコとの転戦でした。

約3年8ヶ月の遠征の締めくくりとして、ニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンWWWFジュニアヘビー級王座を奪取。フィニッシュ・ホールドであるドラゴン・スープレックスを引っさげて凱旋帰国、一躍新日本プロレスのトップ戦線に躍り出ました。

──海外遠征というと、皆さん食べ物に困らされるみたいですが、藤波選手は大丈夫でしたか?

藤波:ドイツに行ったらドイツ、アメリカはアメリカってその土地の料理をずっと食べることになりますけど、そういうもんだと思う方なので「絶対にご飯がなきゃダメ」みたいな気持ちはなかったですね。でも、おいしいあったかいご飯の夢は見ましたけどね。当時はまだ、日本食レストランみたいなところも全然なくて。

──最初の遠征先はドイツですよね。

藤波:ドイツのめしはおいしかったですね。特にアイスバインて料理がおいしくってね。牛のすねの煮込み料理なんですけど、これがうまくて、よく注文してました。
ドイツは昼にあったかいもの食べて、夜は常温のものを食べるんですよ。試合をしてる時はホームステイみたいな感じで住んでたんですけど、夜はパンとソーセージとビール。とあんまりあったかい料理じゃないんですよね。せいぜいスープぐらいかな。夜はあったかい料理を食べたいなって思いましたよね。

──そしてアメリカではカール・ゴッチさんの家で修行されます。

藤波:ゴッチさんの家には半年近くいたんですが、本当にゴッチ夫妻とぼくだけなんですよ。ずっと奥さんの手料理なんですけど、当然ここでもずっとドイツ料理で(笑)。

──ゴッチさん、ドイツ人ですからね(笑)。

藤波:緊張しっぱなしでしたけどね、ドイツ風の煮物みたいな料理がおいしかったですよ。いつも朝6時に起こされて練習して、9時頃から食事が始まるんですよ。ただ、ゴッチさんが昔の人だから、マーチ(行進曲)が好きなんだよね。朝から行進曲をガンガンかけて、気合いを入れられる。

──あんまり音楽ジャンルで「行進曲が好き」って人いないですよね(笑)。しかも朝っぱらから!

藤波:めしを食べた後はゴッチさんは仕事をしてて、僕はその間は「この本でも読んでろ!」って言われて。それが普通のレスリングの解説本ではなくて、(レスリングの起源の)ギリシャパンクラチオンみたいな殺し合い系の格闘技の解説が載っている古い本を読まされて。外国語なんでほとんど読めないから、絵ばっかり見てましたけど(笑)。

──さすが「プロレスの神様」らしいエピソードですね。

藤波:当時楽しみだったのは、1ヵ月に1回くらい、日本から荷物が届くんですよ。その中に当時の『週刊プロレス』が入っていてね。それを読むのが唯一の楽しみだったのに、ゴッチさんが没収しちゃうんですよ。「こんなもん読む必要ない!」って(笑)。見せてくれないんだもん。

──せっかく日本語の雑誌を読めると思ったのに……。

藤波:でもゴッチさんも優しいところがあって、「たまには日本食も食べたいだろう」ってご飯を炊いてくれたりするんですよ。たまにですけどね。ただ、それもギリシャの料理で「グリュックライス」ていうやつでね。ご飯とほうれん草とチキンを一緒に煮た、雑炊みたいなので。雑炊ほどはベチョベチョじゃないんだけど。

──ぜんぜん普通の白飯じゃないんですね(笑)。

藤波:ゴッチさんは「お前はライスが食べたいんだろう?」って、食べさせてくれたんでしょうけどね(笑)。あとゴッチさんで覚えてるのが、毎晩ワインを飲んでいたことですね。そんなにいいワインじゃないんだけど、いつもデカい瓶でね。1日1本くらい空けてました。でも、ゴッチさんとワインを飲みながら話す時間がよかったんですよね。

藤波選手から見た「熊本旅館破壊事件」の真実

──藤波選手って、お酒は飲まれるんですか?

藤波:なきゃいけないってことはないんだけど、あれば飲みますってくらい。ただ、新弟子になってからは飲まされたよね! 試合が終わった後、食事したら先輩たちはもう終わりでしょ。その時間になってぼくはやっと食事が食べられるんですけど、もうベロベロになった先輩たちの酒の肴ですよ。「おつかれさん! よくやった! 駆けつけ三杯!」って。しかもどんぶりでね(笑)。

──若手はまずお酒で遊ばれちゃう。

藤波:しこたま飲まされてね。それも、すきっ腹で飲まされるんですよ。それからじゃ、めしが食えないよね。しかも途中で「練習を見てやる」って言って、旅館の広間なのにもかかわらず、ドカンドカン畳で受け身を取らされたりしてね。あれはもう、一種の「かわいがり」ですよ。

──酒も入って腹も減ってるのに、投げられるのはキツすぎますね!

藤波:それも綺麗な受け身がとれるんだったら大丈夫なんだけど、自分も下手だから擦れるわけですよ。畳だからいろいろな所が擦りむけてね。デビューする前から両肘におでこ、あらゆる所が擦りむけて血だらけでした。だからある時、猪木さんに言われましたから。「お前、デビューもしてないのになんでそんなにケガしてんだ?」って。

──ちなみに、「練習を見てやる」って言ってくる先輩は誰でした?

藤波:だいたいタチが悪かったのは中堅選手だね(苦笑)。今その先輩に会うと、気まずそうな顔をしてますよ(笑)。

──そして新日本プロレスでお酒というと、「熊本旅館破壊事件」。この事件についは、あちこちでうかがってきたんですが……。

藤波:あれはねえ……あんなのはもう、1回きりですよ! あんなに酷かったのは(苦笑)。

──新日本とUWF勢の仲の悪さを察した猪木さんが、両軍を交えた飲み会を開いたら旅館一軒破壊するくらいの大騒ぎに……という話ですよね。

藤波:いちど新日本から出ていったUWFを、新日本が吸収しようとしていたわけだから。選手たちの気持ちからすると、自分たちが立ち上げたものが崩れるのは、いい気がしないですよね。前田(前田日明)にしろ、いちばん血気盛んなころですよね。高田(高田延彦)なんかはもともと新日本に長くいた人間だし、わりとすぐに溶け込めたけど、前田は溶け込めなかったから。

──緊張関係は作られたものではなかったんですね。

藤波:最初は猪木さんが「無礼講で、一緒にめし食って飲めばいいじゃないか」と言って集めて。でも、食事が終わったら猪木さんが「俺がいたんじゃ皆も気を使うだろう」って、坂口さんと出ていっちゃったんだよね。それで自分もいちど出ていったんですけど、どうも大広間がにぎやかなので顔を出してみたら……今思えば、顔を出さなきゃよかったんだけどね(笑)。

──アハハハ! 阿鼻叫喚ですか。

藤波:もう全員が酒で出来上がってて、畳の上に一升瓶が転がってて。旅館の壁にボコボコ穴が空いてるんです。あとトイレのドアが、もともと引っ張って開けるものを、押したのかな? もう打ち抜かれちゃってるし。その旅館のトイレが2階にあったんですけど、もう水が詰まっちゃってて、滝のように水が階段を流れてる……すごい光景だったね(ため息)。もう、旅館の人も誰もいなかったもの。

──まあ、普通の旅館の人では止められないし、逃げるしかないですよね(笑)。あと、選手が裸で殴り合いしてたとか。

藤波:前田と武藤(武藤敬司)かな? 「UWFと新日本、どっちが強いんだ?」って、素手のノーガードで殴り合って、次の日に顔が腫れて、こんなん(大きな手振りで)なってましたからね。もちろん試合だって休みですよ、あんなんじゃ試合に出せないもん!

──前の試合じゃ普通の顔してたのに、何が起きたんだっていう(笑)。

藤波:次の日に会場に行ったら、別の宿に泊まってた外人選手が前田と武藤の顔を見てみんなびっくりしてましたね。「前の試合そんなキツくなかったのに、どうしたんだ?」って。

──藤波さんは酒も入ってなかったし、止める立場ですよね。

藤波:そうですね。自分がマジメだからっていうんじゃなくて、旅館の人たちの後のことがすごく心配になってね。普通、興行なんてできないですよ。でも次の日、坂口さんが現場責任者の小鉄さんとふたりで旅館の弁償についていろいろ話してたけど、次の会場では何もなかったかのように試合が始まってましたからね(笑)。

──藤波さんが一人で気を揉んでただけという(笑)。

藤波:今それをやったら大変ですよ! ワイドショーに取り上げられて、会社だって潰れちゃいますね。それっきり、旅館のあった人吉市には行ってないですね。人吉は鬼門です(笑)。

普段からおいしすぎて、妻の料理の凄さがわからないんです

そして藤波選手と食の話というと、奥様の伽織夫人の話も外せません。その料理の腕は著作を持つほどで、現在も「キッチンナビゲーター」として活躍中。また素材にこだわった味噌、ドレッシングなどのオリジナル商品を販売する「藤波家の食卓」は大型百貨店でイベントを開催しています。

藤波:彼女は料理がもともと好きだったんだね。小学生のころから炊事場に立って、お母さんが作ってた料理を見よう見まねで作ったりしてたみたいで。結婚してすぐ僕の体を考えたメニューを作ってくれるようになったたんですけど、それまで90キロあるかないかでなかなか太れなかったのが、すぐに体も出来上がりましたからね。

──奥様もプロレスラーのごはんなんて、初めてですよね。

藤波:それまでぼくは大皿料理みたいなのばっかりだったんですけど、結婚してからは一品一品、懐石料理やコース料理みたいに出してくれるんですよ。だから家内はぼくが食べ終わるくらいに食べ始める。味付けも、田舎に帰った時におふくろの料理を食べさせたら、すぐに料理の味付けとか合わせてくれて。

──奥様は食べただけでその味を再現できるほどの料理の腕前と聞いています。

藤波:海外に試合で呼ばれた時は家内と一緒に行くんですけど、その国の田舎町とか行くと珍しい料理が出るんですよ。ぼくは「おいしいですね」くらいだけど、家内は味や作り方まで覚えて帰ってくるんですよ。

──奥様の手料理で印象的だったものはありますか?

藤波:なんでもおいしいんですけど、パンを焼いたり、パスタも手打ちで作ったりするし。あとは、キッシュとか。そういうのはあまり家庭じゃ作らないですよね? だから、うちに遊びに来たお客さんが「こういうのもご家庭で作るんだ」って驚かれますね。でも、ぼくは普段から食べてるから、その凄さがわからないんですよ(笑)。

──普通にどれもおいしすぎるんですね。羨ましいです!

藤波:家内のオリジナル料理で「バトルロイヤルチャーハン」ってのがあってね。選手がいっぱいでてくる「バトルロイヤル」って試合形式があるじゃないですか。あんな感じで、冷蔵庫にあるものをなんでもいっぱいチャーハンの具材として入れるんですよ。お漬物とか納豆とか、どんどん入れちゃう。テレビ番組でも紹介したんですけど、これがけっこうおいしいんですよね。

──冷蔵庫にあるものだけでバランスよく作れるのも奥様の腕ですね。藤波さんが今の年齢までプロレスが出来てるのも、奥様の料理のおかげかもしれません。

藤波:それは間違いないですね! よく妻が夫の「胃袋を掴む」っていうけど、うちは典型的です(笑)。

──「藤波家の食卓」では、さまざまな食品をご夫婦のチョイスで発売されてます。

藤波:ここではぼくは味見担当です(笑)。無責任に「あれとこれ一緒にやったら、この料理できないの?」って言ってますね。

──提案担当なんですね。

藤波:うちは食事の時間が長いんですよ。朝なんかは忙しいですけど、夜はだいたい平均で2時間くらい。試食も兼ねて、食べながらいろいろ提案してね。事務所にもキッチンあるんで、そこでも料理の話をしながら作って。そこでのアイデアが、また次のメニューに繋がるんですよ。

毎回さまざまな選手から話を聞くたびに「めしがレスラーを作る」ことに納得させられるこの連載ですが、今回の藤波選手の話では、奥さんの存在の大きさに気づかされました。現在も現役でリングに上がっている藤波選手、ドラゴンの長命の秘訣は妻の手料理にあり! ですね。


インタビュー撮影:平山訓生

書いた人:大坪ケムタ
アイドル・グルメ・芸能etcよろず請け負うフリーライター。メシ通での好評連載『レスラーめし』(ワニブックス・刊)が書籍版のみの追加エピソード、小林邦昭獣神サンダー・ライガー対談も特別掲載して絶賛発売中!

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個人の意見

>彼は釣りが好きなんですけど、買い物の時間に野毛の釣り堀に行って、そこで釣ってきた鯉だって言うんですよ。そこがもう小さい釣り堀で、水質も悪くてドロドロの釣り堀なんですよ。「この鯉って、まさかあそこの鯉じゃないだろな」って言ったら、案の定で(笑)。預かったちゃんこ銭でパチンコをやって、すってしまったみたいで。残ったお金で鯉を釣ってきたという(笑)。それはもう、小鉄さんにものすごく怒られてましたね。


 さすがグラン浜田選手、小さな巨人

 そして、藤波選手はマルキユー社のお祭りでプロレス興行を行っているという、この釣りにまつわる縁。