TDL 誘致逃した手賀沼計画
1/10(木) 5:10配信
東洋経済オンライン
千葉県浦安市の東京ディズニーランドは、昨年開園35周年を迎えた。その長い歴史の中で、2001年には東京ディズニーシーを新たに開園。さらに、2020年に向けて新エリアの開園も予定されている。規模拡大を続ける東京ディズニーリゾートは、国内テーマパークナンバーワンの名をほしいままにしている。
舞浜リゾートラインの車掌はガイドキャスト、駅員はステーションキャストと呼ばれる。ディズニーランドを運営するオリエンタルランドの筆頭株主が京成電鉄であるという関係からか、これらキャストは京成職員が担当している。
■当初の候補地は手賀沼だった
1958年に渡米した川崎は、そこでディズニーランドを目にした。帰国後、すぐに誘致の交渉を始めた川崎だったが、交渉は難航した。
このときに川崎が誘致に動いた場所は、浦安ではなかった。東京ディズニーリゾートのある舞浜地区は、1975年に埋め立てを完了した。つまり、川崎が交渉をしていたとき、まだ当地は姿形さえなかった。
手賀沼ディズニーランドを開園させるために、官民一体となった全日本観光開発が設立された。同社は京成のみならず千葉県、東武鉄道、後楽園スタヂアムなどが出資し、会長には前・東京都知事だった安井誠一郎が、社長には東京都競馬会長だった米本卯吉が就任した。
手賀沼ディズニーランド計画を最も歓迎したのは、我孫子だった。その歓迎ぶりはすさまじく、「広報あびこ」の1961年1月号では見開き2ページを割いて手賀沼ディズニーランド計画を紹介している。
同紙が発行されたときは、まだ誘致の段階。正式決定前にもかかわらず、行政当局が広報紙を使って大々的に構想を住民に告知したのだ。その様子からも、我孫子がいかに手賀沼ディズニーランドを熱望していたかがうかがえるだろう。
同紙が発行されたときは、まだ誘致の段階。正式決定前にもかかわらず、行政当局が広報紙を使って大々的に構想を住民に告知したのだ。その様子からも、我孫子がいかに手賀沼ディズニーランドを熱望していたかがうかがえるだろう。
我孫子が手賀沼ディズニー計画に熱を入れていたのは、なぜか。それは日本鉄道土浦線(現・JR常磐線)が1896年に駅を設置して以来、我孫子は手賀沼とともに観光都市、もっと詳しく言えば高級別荘地として発展してきたことと関係がある。
■手賀沼周辺は別荘地に
江戸期、我孫子は水戸街道の宿場町としてにぎわった。明治に入って土浦線の建設が始まると、我孫子は積極的に駅用地を提供する。駅開設に尽力した飯泉喜雄は、その功績を称えられる人物だが、我孫子駅が開設された当時は地主の1人にすぎなかった。後年、そのリーダーシップが花開き、飯泉は町長を務めた。
土浦線開業後の1901年には、成田鉄道(現・JR成田線)が開業。我孫子駅は日本鉄道と成田鉄道の分岐点となり、大いににぎわうことになる。農村地帯だった千葉県・茨城県は東京と直結。土浦線には、朝採れた野菜を東京で売り歩く行商人が目立つようになった。特に、関東大震災で東京が壊滅状態になると、被害が軽微だった千葉・茨城から多くの行商人が野菜を売るために列車に乗った。
また、昭和に入ると、立て続けに恐慌が発生。日本経済は大混乱に陥った。国際都市として経済発展を続けていた東京は物価が高騰。満足に食糧が手に入らなくなった。こうした東京の食糧危機を救ったのが、千葉・茨城の行商人だった。数多くの行商人が東京に東京と茨城を行き来し、常磐線や京成線では専用列車が運行されるほどの盛況ぶりを見せた。
同紙が発行されたときは、まだ誘致の段階。正式決定前にもかかわらず、行政当局が広報紙を使って大々的に構想を住民に告知したのだ。その様子からも、我孫子がいかに手賀沼ディズニーランドを熱望していたかがうかがえるだろう。
我孫子が手賀沼ディズニー計画に熱を入れていたのは、なぜか。それは日本鉄道土浦線(現・JR常磐線)が1896年に駅を設置して以来、我孫子は手賀沼とともに観光都市、もっと詳しく言えば高級別荘地として発展してきたことと関係がある。
■手賀沼周辺は別荘地に
江戸期、我孫子は水戸街道の宿場町としてにぎわった。明治に入って土浦線の建設が始まると、我孫子は積極的に駅用地を提供する。駅開設に尽力した飯泉喜雄は、その功績を称えられる人物だが、我孫子駅が開設された当時は地主の1人にすぎなかった。後年、そのリーダーシップが花開き、飯泉は町長を務めた。
土浦線開業後の1901年には、成田鉄道(現・JR成田線)が開業。我孫子駅は日本鉄道と成田鉄道の分岐点となり、大いににぎわうことになる。農村地帯だった千葉県・茨城県は東京と直結。土浦線には、朝採れた野菜を東京で売り歩く行商人が目立つようになった。特に、関東大震災で東京が壊滅状態になると、被害が軽微だった千葉・茨城から多くの行商人が野菜を売るために列車に乗った。
また、昭和に入ると、立て続けに恐慌が発生。日本経済は大混乱に陥った。国際都市として経済発展を続けていた東京は物価が高騰。満足に食糧が手に入らなくなった。こうした東京の食糧危機を救ったのが、千葉・茨城の行商人だった。数多くの行商人が東京に東京と茨城を行き来し、常磐線や京成線では専用列車が運行されるほどの盛況ぶりを見せた。
しかし、競艇場を開設すれば、治安悪化は避けられない。出入りする人たちによるゴミ問題も深刻になる。手賀沼のさらなる水質悪化を招く懸念もあった。住民の間には反対意見も根強く、手賀沼の競艇場建設は我孫子を二分する争いに発展した。
この争いは、町長選に反対派が勝利したことで終息する。当然ながら、競艇場建設も撤回された。
■起工式も実施されたが…
競艇場建設が撤回されたとはいえ、我孫子の衰退を食い止める策を講じなければならない。町役場は、新たな我孫子振興策として東京五輪のボート競技会場として手賀沼を使用してもらおうと働きかけた。しかし、これはあっけなく戸田に敗れる。
我孫子にとって、手賀沼ディズニーランド計画は渡りに船だった。開発を担当する全日本観光開発会長に前・東京都知事の安井誠一郎を据えた背景には、政治力を取り込むことだった。これまで不可侵とされてきた手賀沼の埋め立て工事は、政治力をもって可能にした。
また、遊園地経営のノウハウを得るために、全国各地で遊園地を経営していた後楽園スタヂアム社長の真鍋八千代も取締役に加えた。計画に前のめりになっていた町役場は、早々と「広報あびこ」で手賀沼ディズニーランド計画を詳報。それから1年半後には、手賀沼の畔にある公園で起工式が実施された。もはや、手賀沼一帯にディズニーランドが開園することを疑う関係者は皆無だった。
順風満帆だった手賀沼ディズニーランド計画は、起工式からわずか半年後の1963年初頭から一転。瓦解を始める。
全日本観光開発の経営は行き詰まっており、手賀沼を大規模開発できる運転資金はなくなっていた。工事は進まず、当初オープン予定にしていた1964年には間に合わない。
地元自治体からの疑念を払拭するべく、全日本観光開発は社長を交代させた。新社長は、朝日土地興業の丹沢善利だった。朝日土地興業は、総合レジャー施設の船橋ヘルスセンターを経営する都市開発会社で、朝日土地興業社長を新社長に就任させたことで手賀沼ディズニーランドの開発意欲があること我孫子・沼南に示そうとした。
こうしたトラブルに加え、手賀沼の水質悪化がトドメを刺す。手賀沼ディズニーランド問題は千葉県議会でも議論された。手賀沼の水質悪化により、遊園地としてふさわしい土地ではないとの結論を出し、千葉県は建設予定地を宅地転換することを早々に決定。こうして、手賀沼ディズニーランド計画は終焉を迎える。
■手賀沼に代わる候補地は?
新たなプロジェクトでは、富士山付近をはじめ複数の候補地が挙がったが、我孫子のように公的機関が発行する広報紙で大々的に事前告知されることはなかった。最終的に、ディズニーランドの建設は千葉県浦安の埋立地に決まった。そして、手賀沼ディズニーランド計画の破綻から約20年の歳月を経て、1983年にめでたく東京ディズニーランドが開園する。
現在、東京ディズニーリゾートの最寄り駅は、舞浜駅となっている。東京ディズニーランドの開園時には、まだ京葉線は建設すらされていない。オリエンタルランドの株主でもある京成はアクセス路線を計画したが、実現しなかった。
別荘地として整備されてきた大正期は雨水と汚水を別々の導管で処理する分流式という下水システムが導入されたが、高度成長期に建設が進んだ新興住宅エリアでは合流式で建設された。合流式は、雨水も汚水もひとつの導管で処理する。工費も安価で工期も短いが、ひとたび雨が降ると、すぐに処理能力を超えてしまう。限界に達した汚水は、未処理のまま河川に放出せざるを得ない。汚水が河川に垂れ流されれば、当然ながら手賀沼の水質は悪化する。
■我孫子駅の重要性は高まったが…
それから40年以上が経過し、2015年に上野東京ラインが開業。ダイヤ改正で常磐線は品川駅まで乗り入れるようになった。同じく、上野東京ラインの開業によるダイヤ改正によって、土日の臨時列車という扱いながら我孫子駅を始発駅とする特急「踊り子」の運行も開始された。常磐線の品川駅延伸によって我孫子駅の重要性は高まった。
朝夕の我孫子駅は多くの利用者でごった返す。こうした我孫子の発展は、手賀沼あってこそだが、その水質は一向に改善する気配を見せない。我孫子市には手賀沼課という専門部署まであり、水質改善への並々ならぬ意気込みを感じさせる。
我孫子にとって手賀沼は発展の礎でもあり、かけがえのない財産でもあり、市民のアイデンティティーでもある。ゆえに、市を挙げて手賀沼の水質改善に取り組んでいるが、思うような成果は出せていない。市は手賀沼の水質状況を知らせる張り紙を我孫子駅に掲出し、手賀沼の様子を市民に報告を続けている。残念ながら、それを気に留める人は少ない。(文中敬称略)
小川 裕夫 :フリーランスライター
個人の意見
この辺りの顛末は、手賀沼湖畔で貸舟業と看板、船舶免許で知られる『小池』の主、小池 勇氏の著書にも記されている。
※ 1例 舟宿へ直接求めに行ってもいいし、Amazonでも入手できる。
ボート屋の手賀沼歳時記 (手賀沼ブックレット No. 5) 小池 勇
この辺りの顛末は、手賀沼湖畔で貸舟業と看板、船舶免許で知られる『小池』の主、小池 勇氏の著書にも記されている。
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ボート屋の手賀沼歳時記 (手賀沼ブックレット No. 5) 小池 勇
ちなみに数年前、月刊釣り専門誌の連載に、同著書を参考文献として同内容を紹介したがまったく話題にならなかった(笑)。