マルキユー株式会社

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読売新聞、THE DAILY YOMIURI

 「釣り餌ならサナギの商売を続けられる」。小口油肥(現・マルキュー)社長の宮沢政吉さん(一九七八年二月死去)が会社存亡をかけ、業態転換の決断を下したのは一九六六年三月だった。製糸の街・長野県岡谷市でカイコのサナギを原料に肥料製造を続けた小口製肥の九番目の支店・大宮支店から独立後、二十八年にして訪れた一大転機だった。

 原料の仕入れ先である片倉工業(旧大宮市)が製糸からの撤退を表明、六六年三月十三日には火災で社屋のほとんどを焼失した。旧国鉄の大宮―赤羽間複々線化工事に協力するため、社有地三分の二の買収に応じた。業態転換の采配(さいはい)は待ったなしの状態だった。

 倉庫業、園芸肥料などの製造、釣り餌製造――。経営陣から示された選択肢は三つ。政吉さんは「蒸気が噴き出し、電気を使って動かすような生産的な工場をやりたい」と意欲を示し、サナギを応用した釣り餌作りへの挑戦を決めた。

 サナギは長年の取引で各地の製糸工場から電話一本で入手できた。政吉さんの三男で若手社員だった政信さん(64)(現社長)が釣り餌の試作を担った。

 政信さんは、ジャガイモの練り餌と麩(ふ)の配合具合を変えて配合餌を作っては、電車に乗り、政吉さんの知人で東京・亀有で洋品店を営む和田敬造・関東へら鮒釣研究会長宅へ持参した。

 合格点はなかなかもらえなかった。「『麩はもっと細かく』と助言を受けた。一日に三回往復したこともあった。一目見てダメと言われたことも」と政信さんは述懐する。後に同社の名を広めた「青へら」「赤へら」の販売が始まったのは六七年四月のことだった。

 政信さんは旧大宮市立南小から明治中学に進み、野球漬けの学生時代を過ごした。明大を卒業後、大和証券に入社したが、証券不況で所属していた野球部が解散となった。「一緒に釣り餌をやらないか」。会社の浮沈がかかる事業に政信さんを誘ったのは中村和敏常務(73)(現会長)だった。

 中村さん自身は、政信さんが釣り餌試作に取り組むのと同時に、営業を一手に引き受け、見本を手に問屋回りを続けた。サナギを口に入れ、「人間がおいしく食べられなければ魚の餌にならない。新鮮なサナギをその日のうちに乾燥して袋に詰めています」と売り込んだ。説得力抜群、自信にあふれた中村さんの姿に、問屋は次々に代理店契約を結んだ。

 一九六七年に650万円だった小口油肥の売上高は、ピーク時の九六年には70億円に達した。業態転換し成功を収めた同社の釣り餌。湖沼をはじめ、海釣り用の餌の種類も豊富で、現在、国内で販売される釣り餌の70%を同社製品が占める。釣り堀こそあれ、海のない県から続々と世に送り出される釣り餌。「釣りを何も知らない集団だったからこそ、釣り人の意見を熱心に聞き、言われた通りに夢中になって餌を作った」(政信さん)。ひたむきさこそが成功のカギになった。

     (住友 堅一)

 【マルキュー】 一九一〇年十月に開設の小口製肥合資会社(本社・長野県岡谷市)の大宮支店が前身。一九八四年、大宮支店が九番目の支店で●と冠されていたことに由来し、現社名に変更された。資本金9600万円。JRさいたま新都心駅東隣に、新都心地区初の民間テナントビルを持つ。本社・桶川市赤堀。

 ●は、○の中に九

個人の意見

>政信さんは旧大宮市立南小から明治中学に進み、野球漬けの学生時代を過ごした。

>>高校時代は野球部の4番キャプテンとして活躍し、1958年の夏には王貞治氏(現ソフトバンク代表)率いる強豪早実を自らのバットで打ち破り、チームを甲子園へと導いた。明治大学でも野球部主将として活躍。

 第40回全国高等学校野球選手権大会(1958年8月8日~19日)は、板東英二氏が83奪三振(通算奪三振の最多記録で、今年も破られなかった)を記録した年ですね。

 板東英二氏のプロフィールに「王貞治とは同学年でともに甲子園で活躍したが、高校野球時代の両者の対戦はない(Wikipedia 原文そのまま)」と書かれているが、早実が出なかった年もあるのだ。

※ 活躍した内容はトラバ先をご覧下さい。