林家一門のおかみさん「海老名香葉子」さん


プレジデント 11月15日(日)18時15分配信

■壮絶な過去を振り返った自叙伝

 “昭和の爆笑王”と呼ばれた先代・林家三平師匠の妻で、三平師匠亡き後の林家一門を取りまとめるおかみさんとして知られる海老名香葉子さんの著書。といっても、他のタレント本とは全く違う壮絶な自身の過去を振り返った感動の自叙伝であり、戦後70年経った今も埋もれている歴史を紐解く重要な一冊だといっていい。

 海老名さんは1933年、江戸和竿「竿忠」という釣り竿師の家に生まれた。曾祖父は名人と呼ばれた人で、1900年のパリ万博に出品して入賞したこともあったという。いわば伝統職人の名家で、上に3人の兄、下に8歳違いの弟がいた。祖父母と両親の9人家族。祖母が長火鉢にキセルをポンポンとはたく音、母が朝食を作るため、まな板の上で食材を切る音、ごはんが炊き上がる匂いなどから始める朝など日常の描写が細かく描かれ、幸せな日々の光景が目に浮かぶ。

 本来なら、この幸せな一家は長男が家を継ぎ、海老名さんもいい縁談かステキな恋愛を経て結婚していき、孫を見せて両親の喜ぶ顔をみて喜んでいたに違いない。しかし、この幸せな一家の運命を一転させたのは、戦争だった。1941年12月8日、太平洋戦争が開戦する。

 国防婦人会に足繁く通うようになった祖母は、出征する兵士の接待や戦地にいる兵士のための慰問袋作りに忙しくなった。母も千人針や祖母の助けをするようになった。中学生の兄たちは勤労奉仕で軍需工場に行くようになった。まだ小学生だった海老名さんだが、当時の子どもたちが皆そうだったように、兵隊さんにエールを送る愛国少女になっていた。

 今のように情報が行き届いている時代ではない。お国が勝利することを本気で信じていながら、夜になれば灯火管制で電燈に黒い布をかぶせ、身を寄せる毎日。空襲警報が鳴ると警防団の役員をしていた父は消火活動に出かけ、残された家族は防空壕に逃げ込んでいた。

 1944年7月、国民学校学童疎開が始まった。一般的には強制的なものだが、中には縁故疎開といって親戚や知人を頼って疎開するケースもあった。家族で唯一国民学校に通っていた海老名さんは叔母のいる静岡・沼津に行くことになった。この疎開が運命の分かれ道だった。

 東京大空襲――。今なお正確な死者数が出されていない大惨事に、海老名さん一家も巻き込まれた。兄一人だけは助かったが、6人は被害に見舞われた。悲劇はこれで終わらなかった。親兄弟を失った少女は、親戚などを頼って歩いた。かつて海老名さんたちは、親戚や行楽地など、どこへ行っても可愛がられていたが、どこも手のひらを返したように冷たかった。

 そんな海老名さんの“救世主”となったのが、落語家の三遊亭金馬師匠(三代目)だった。「竿忠」のお得意さんだった金馬師匠は、一家の身を案じ、自宅の焼け跡の石段に「金馬来る。連絡乞う」の書き置きをしていた。それを見て、訪ねていったところ、諸手を挙げて喜び、すぐさま「うちの子におなり」と言ったという。

 そのご縁から三平師匠との結婚があり、現在に至っているが、海老名さんは東京大空襲の慰霊に奔走し続けた。海老名さん自身、実は東京大空襲の遺族として扱われていない。家族の遺骨が見つかっていないためだ。

 東京都に「慰霊の日」を制定するようお願いしたり、慰霊碑の建立を申請するも、糠に釘のような状態が何年も続いた。ようやく、海老名さんが上野の寛永寺に相談し、敷地の一部を使わせてもらえる許可が出てようやく都もゴーサインを出したという。とはいえ、石碑の像にもんぺ姿は戦争を彷彿されるからNGだとか、都は些末なことに神経を尖らせる始末。本当に向き合うべきことをしていないことが行間から伝わってくる。

 そんな凄まじい過去、過酷な人生を送ってきたと、誰が想像できるだろうか。テレビ番組などで拝見する姿は、いつも笑顔で楽しいおばあちゃんだからだ。しかし、悲しいことを数多く乗り越えてきたからこそ、人は他人に対して優しくなれるし、笑っていられるのだろう。

 本書は新書なので手軽に持ち運べるが、電車内などでは気をつけた方がいい。思わず、涙してしまう姿を見られる恐れがあるからだ。

ジャーナリスト 山田厚俊=文

個人の意見

>海老名さんは1933年、江戸和竿「竿忠」という釣り竿師の家に生まれた。曾祖父は名人と呼ばれた人で、1900年のパリ万博に出品して入賞したこともあったという。いわば伝統職人の名家で、上に3人の兄、下に8歳違いの弟がいた。

>そんな海老名さんの“救世主”となったのが、落語家の三遊亭金馬師匠(三代目)だった。「竿忠」のお得意さんだった金馬師匠は、一家の身を案じ、自宅の焼け跡の石段に「金馬来る。連絡乞う」の書き置きをしていた。それを見て、訪ねていったところ、諸手を挙げて喜び、すぐさま「うちの子におなり」と言ったという。
>そのご縁から三平師匠との結婚があり、現在に至っている
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>金馬の趣味は前述の通り釣りだが、お気に入りの釣竿があり、それを作る名職人(江戸竿師)の娘が海老名香葉子であり、幼いころから家族ぐるみの交流があった。香葉子は、太平洋戦争の東京大空襲で一夜にして父を含む家族のほぼ全員を失い、みなし子となった。亡き父の竿を贔屓にしていた縁もあって、当時、香葉子と再会したおりに、金馬は「ウチの子におなりよ」と声をかけた。

 有名な話だが、最近は知っている人が減っていたように思う。