元ヤクルト投手・松岡弘さん 釣り場を守る大エース 三和新池

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読売新聞(ヨミドクター) 10月24日(月)15時13分配信


 「いっぱい釣れた? そう、ありがとう」

 帰り際の客、ひとりひとりに声をかける長身痩躯(そうく)、目尻の下がった人なつこい笑顔。ある年代以上の男性には、「あっ」と気がつく人も多いはずだ。

 今シーズン、セ・リーグの優勝を争った東京ヤクルト・スワローズだが、昭和40年代のヤクルトは弱かった。Bクラスが続き、監督も目まぐるしく代わるチームをひたすら牽引(けんいん)したのが、不動のエース・松岡弘。その人は今、茨城県古河市の山あいにある管理釣り場「三和新池」にいる。

 1985年の現役引退後、解説者、コーチを経て、独立リーグ三重スリーアローズの監督に就任。しかし、昨夏には体調不良で辞任した。そこへ、10年来の釣り仲間から声がかかった。釣り場の支配人をやってみないか、というのだ。釣具店を営む実家で育ち、釣りは長年の趣味だった。見ず知らずの土地に、単身赴任となるが、「野球に思い残すものはなかったし、妻に相談しても、『体には気をつけて』と言うくらい。それなら、やってみようとね」。

 釣り場の事務所に泊まり、朝は4時に起きる。ナイターが基本だった野球人時代とは正反対の生活。6時半に開場するまでに、広い釣り場や事務所、食堂、トイレの掃除をすませる。「すいません。糸が外れて……」という客がいれば、駆けつけて手助け。64歳の体は常に忙しく動いている。

 中学生のときから、野球一筋の人生だった。釣り場では野球以外の仲間が増え、新しい発見も多い。


 「野球選手というのはわがままな一匹狼(おおかみ)。それを集めたのがプロの球団だ。でも、一般社会では、わがままは通用しないよね。人の言うことを聞く耳を持たないと、うまくいかない。そうして、みんなに喜んでもらえる釣り場にしていきたい。僕にとっては、これも勉強ですよ」。照れくさそうに頭をかく。

 引退時には惜しむ声が多かった。長い腕をしならせて繰り出す快速球とカーブを武器に通算191勝、あと9勝で「名球会」入りだったからだ。しかし、体が悲鳴を上げ、満足な投球は望めない。記録のために無理をして投げる姿は、ファンが知っている松岡ではない、そう思って、引退を決断した。そして、もう一つの勲章が190の黒星だ。「投げても投げても負け続け、それでもエースとして登板した。監督が何人も代わって、僕を嫌いな人もいたかもしれないが、それでも起用され続けた。それは誇りです」と言う。

 78年、ヤクルトは球団初のリーグ優勝を飾った。松岡さんも16勝を挙げ、この年の沢村賞に輝いた。日本シリーズでは2勝2セーブ、つまり勝ち試合全てに投げ、日本一になった。その雄姿は今もファンの語りぐさだ。

 釣り場で過ごす静かな夜は、あのシリーズの緊迫した場面を思い出すこともあるという。スーパーでお総菜を買い込んで、ビールを1本。野球の結果は気になるが、翌朝の仕事を考えると、試合終了まで起きていられない。「今はサービスをすることの難しさを実感しています。いつかは、それが心から楽しいと思えるようになりたいね。そして、この釣り場も、いつかは日本一と言われるようにしたい、なんて思っています」(梅崎正直)

 まつおか・ひろむ 1947年、岡山県生まれ。県立倉敷商業高校から三菱重工水島を経て、ドラフト5位で、68年にサンケイ・アトムズ(現・東京ヤクルト・スワローズ)に入団。4年目にエースとなり、73年には21勝を挙げた。日本一になった78年には、日本シリーズ最優秀投手賞を獲得。80年、最優秀防御率。通算191勝190敗。

個人の意見

 普段、まったくヘラブナ釣りを取り上げない媒体に、松岡弘氏という話題によって掲載される機会が増えてきた。
 もしかすると、松岡氏は自らの知名度を使い、ヘラ業界に貢献しようと考えているのかも知れない。